深夜、騒がしい物音で目が覚めた。
アパートの二階に住む若者が、酒の勢いでにぎやかにやっているらしい。
近隣からもたびたび苦情があり、警察が見回りに来て注意したことも一度や二度ではなかった。それなのに、相変わらず非常識な行為が止む気配は無い。
身内の誰かか、金と権力でもみ消しているらしい。
そんなうわさを聞いたことがあるが、だったら、もっと防音のちゃんとした高級マンションにでも住めばいいのに。と、単純に思うんだが。
だんだん酷くなる騒音にたまりかねて、仕事疲れで重い身体を起こし、受話器に手を掛ける。
深夜二時。
しかし、ダイヤルを回すことを思いとどまってしまう。
すっかり冴えた頭で、もうひとつの嫌なうわさを思い出したためだった。
『警察に通報したYさん、急な仕事の都合で引っ越したらしいよ。ああ、そう云えばTさんもこの前…』
これは偶然なのだろうか。
何か見えない歪んだ力が働いているとしたら、俺ももしかしたらとばっちりを喰らうかもしれない。
泣き寝入りするしかないのだろうか。
俺は受話器をきつく握り締めると、ダイヤルは何も回さないままで、せめてもの鬱憤晴らしに、怒りを抑えた低い声でこう呟いた。
「…誰か、二階の馬鹿どもを黙らせてくれませんか…」
そのまま静かに受話器を置く。
思いのたけを声に出したせいか、少し気分が晴れたように感じ、再び布団にもぐりこんだ。
翌日、不思議とスッキリとした目覚めの朝を迎えた。
あれから程なくして、眠りにつけたらしい。
何事もなく会社に向かい、いつもどおりに仕事をこなし、帰宅の途についた。
その夜。
二階は静かだった。
まるで誰も居ないかのように。
いつもなら、夕方から下階をまったく気にしない運動会のような物音が響いているのに。
「留守かな…」
それから一ヶ月ほど経ったが、相変わらず、人の気配が感じられない。郵便受けにも多数、チラシなどが手付かずに放置され溜まっている。
「旅行だろうか…実家が金持ちなら、平気で海外くらい行くだろうし…」
そもそも、こんなボロアパートの存在なんて、取るに足らないことかもしれない。
二ヵ月後、アパートの前に大きな引越しトラックが止まり、二階の部屋に荷物を運んでいた。
翌日、夜分に見知らぬ女性が訪問してきた。
「二階に引っ越してきました、Sと申します。よろしくお願いします」
軽く頭を下げ、手土産を受け取った。
いつの間にか、あの非常識に騒々しい若者たちは引っ越していたようだ。何があったのかは知らないが。
そもそも、そんなことはもうどうでもよかった。日常の安楽を脅かす存在が、向こうから勝手に消えてくれたのだ。これほどありがたいことは無い。
これでもうこの先、仕事終わり部屋へ帰ることに臆することはなくなるかと思うと、嬉しさに笑いがあふれ出しそうになった。
その深夜、安眠を打ち破るように突如電話のベルが鳴り響いた。
驚いて目を覚ますが、夜遅すぎることもあり、受話器をとることをためらってしまう。
なんだか、薄気味悪い。
何か嫌な予感めいたものがよぎる。
深夜の電話に、いい知らせが来たためしがないせいだろう。
しばらくすると、設定しているベル回数に達したらしく、自動応答に切り替わった。
『ただ今、電話に出られません。しばらく経ってからお掛け直し頂くか、発信音の後にメッセージをお入れください』
ピーッ、という音のあとで、相手の声が流れてくるのが聞こえた。
聞き覚えの無い男の声で、確かにこう云ったのをはっきりと覚えている。
『Mさんですね。お休みのところ申し訳ございません。ご依頼の件、確かに承りましたので、事後になりましたが、ご報告申し上げます。尚、料金に関しましては、今回始めてのご利用ということで、お試しの無料サービスとさせて頂きました。御満足頂けましたら、またのご利用お待ちしております…』
ピー、という音と共に、通話が切れた。
何のことやら、さっぱり分からなかった。
間違い電話かたちの悪いいたずらかとも思ったが、何かが心の中に引っかかる。
仮に何処かの業者に何かを頼んで居たのだとしても、こんな真夜中に確認の電話を入れることは無いだろう。
念のため着信履歴を確認してみると、『公衆電話』の表示になっていて、特定できなかった。
ますます怪しい。
けれども、こちらからはどうすることも出来ない。
しばらく様子を見て、また何かあったら警察に相談しようと思い、この日はそのまま就寝した。
俺が事の真相を知ったのは、それから半年ほど経ってからだった。
会社の吸収合併で、新しく赴任してきた上司がとんでもない輩で、俺を含め部署内をむちゃくちゃにかき回していた。
どうみても、我々を邪魔者扱いして、部署ごと取り潰すか、総入れ替えをすべく、陰湿な嫌がらせをしているとしか思えなかったのだ。
しかし、吸収された会社で、立場の弱い俺たちは、どうすることも出来ずに、一人また一人と、会社を去っていくのが現状だった。
最後一人頑張っていた俺もついに追い込まれ、職場を去る日がやってきてしまう。
最後の日の夜、悔しさのぶつけどころが無かった俺は、家に引き篭もってひたすら酒を飲んで荒れに荒れた。
相当に酔いつぶれたところで、ふと、目線の先が電話機を捉えた。
そのときは何故だか分からなかったが、引き寄せられるように這ったまま手を伸ばし、受話器をとると、勢いに任せてこう云った。
「誰か、あのムカつく会社の上司…いや、もういっそ俺の職場を奪った親会社ごと、潰してくれないか…」
受話器を置く。
不意に、既視感を覚えて身を起こした。
似ていないか、あの夜に。
しかし、今宵はかつてのあの日と少し違っていた。
直後に電話が鳴り、俺は驚きながらも受話器を取ってしまった。
取らないといけない様な気がしたからだ。
「…もしもし」
『Mさんですね。ご利用ありがとうございます。前回無料お試しを既にご利用頂きましたので、今回からは有料となりますがよろしいでしょうか?また、対象人数がこの度は会社ひとつ分とかなり大掛かりになっているようなので、日にちも料金もそれなりにかかりますが…ああ、上司一人を消す、と言うことでしたら、格安でしかも即日に実行できるかと存じます。一度見積もりを取らせて頂きまして…』
※この作品は『小説家になろう』サイトへ2013/10/27に投稿したものです。